山塚リキマル

1990年、北海道富良野市出身。『指示待ち世代のカリスマ』との呼び声も高い、SF(ソウルフル)作家/プロ知ったかぶり。 大型特殊免許/フォークリフト/猟銃免許/わな猟免許所持。口癖は『疲労困憊』。 小説/評論/解説/作詞/漫画原作/コラム/エッセイ/インタヴュー/広告記事など、ジャンル横断的な著述活動を旺盛に展開する。’22年、自費出版した雑誌『T.M.I』が小ヒット。

Rikimaru Yamatsuka

Rikimaru Yamatsuka

作家

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2024年度公開、人気漫画の実写映画7選

2024年度公開、人気漫画の実写映画7選

タイムアウト東京 > 映画 > 2024年度公開、人気漫画の実写映画7選 2024年は人気漫画の実写映画が熱い。まぁ実際は2023年も2022年も2021年も、なんなら「あしたのジョー」や「銭ゲバ」が実写化された1970年も熱かったわけであるが、例によって今年も熱いわけである。 2000年代後半から、「漫画の実写化作品」は年間30本前後が制作されており、ファンやアンチが公開前からSNSで「キャスティングが神」「原作愛が感じられない」といって喧喧諤諤やり合うのも含めて、もはや国民的な関心事のひとつとなっている。されば踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら何とやらというやつで、このビッグウェーヴに乗らない手はない。 「いまや日本映画はオリジナル脚本のものはほとんどない。人気の原作があって、ある程度の観客動員を見込めるものでなければ制作されない」と嘆くシネフィルの気持ちも分からんではないが、これはもはや祭りなのだ。 本稿では、2024年に公開される実写化作品の中から注目作を紹介する。 関連記事『2024年公開の注目映画15選』『日本で最もセクシーな映画俳優』
正月・冬休みに観たい日本映画7選

正月・冬休みに観たい日本映画7選

タイムアウト東京 > 映画 >正月・冬休みに観たい日本映画7選 あれよあれよで気がつきゃ師走、いよいよ来たる年末年始。猫も杓子もチルアウト、諸人こぞりてリラックス・ムードに包まれるこの時節、 たこ揚げやこま回し、相撲や羽根突きに興じるのも大いに結構だが、 「クソ寒いのに外なんか出たかねぇよ!」というインドア主義の人に勧めたいのはやはり、映画鑑賞である。 つーワケで今回ワタクシ、「正月・冬休みに観たい日本映画」をセレクトした。 ダラダラしながら観るのにうってつけのユルいコメディや、 新年に向けて気合いを注入するためのパワフルな時代劇など、多様なジャンルを取り揃えてみたので、ぜひ各々のモードに合わせて鑑賞してみてほしい。 おひとりさまで、あるいは友達や家族、もしくはパートナーと、コタツに入ってミカンを食べたり、部屋を暗くしてブランケットを頭からかぶったりしながら映画を観る。これほど楽しいことはない。 関連記事『クエンティン・タランティーノ映画、全作品ランキング』『人生で観ておくべき、日本映画ベスト50』
あなたのタトゥーを見せて(友人編)

あなたのタトゥーを見せて(友人編)

タイムアウト東京 > カルチャー >あなたのタトゥーを見せて(友人編) 僕にはタトゥーが入っている友人がたくさんいる。もともと僕は札幌で中華一番というヒップホップクルーをやっていたのだけれど、ARIKAという画家で彫り師の青年が加入したのをきっかけに、彼にタトゥーを入れてもらうメンバーがちらほら現れ出したのがターニングポイントではなかったかなと思う。いつか死ぬその日まで残り続けるそれを、気心の知れた友人に彫ってもらう。というのは、きわめて深いコミュニケイション=魂の交接だ。 今回、僕はタトゥーが入っている友人たちに質問をぶつけ、その意味やエピソードを問うてみることにした。で、やっぱりそれぞれに意味があって、ちゃんとエピソードがあった。タトゥーとは皮膚にモチーフを刻み込むだけではなく、意味とエピソードも刻み込むものなのだと思った。 ここでは友人の素晴らしいタトゥーとともに、その回答を紹介する。 関連情報『東京で行くべきタトゥースタジオ』『日本風のタトゥーを入れる前に知っておくべきこと』
2023年度公開、人気漫画の実写映画7選

2023年度公開、人気漫画の実写映画7選

タイムアウト東京 > 映画 > 2023年度公開、人気漫画の実写映画7選 日本人が映画館に足を運ぶ平均ペースは「年1」なのだという。これはアメリカと比較すると4分の1の回数で、「日本人はあんまり映画館には行かないんだナァ」という小学生並みの感想を思わず述べてしまうが、そんなふうに映画鑑賞がけっして盛んとはいえない我が国において、常に話題をかっさらい続けている一大ジャンルがある。『漫画の実写映画』だ。 漫画の実写映画は、SNSにおけるトレンドの常連であり、ファンにせよアンチにせよ「これについて何かひとこと言わなくてはならない」という高いコメント誘発性を持っている。「好きの反対は無関心」という陳腐なテーゼを持ち出していえば、漫画の実写映画こそまさしく国民的な関心事のひとつといえるであろう。いわば祭りだ。 原作ファンや洋画信者も、偏見や先入観はいったん置いて、祭りに参加しようではないか。本稿では2023年度に公開される漫画の実写映画の中でも、これは相当な祭りになるのではないかという注目作を紹介する。 関連記事『2023年公開の注目映画17選』『日本で最もセクシーな映画俳優』

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演劇型マーケット「おかしなおかね」に出店してきた

演劇型マーケット「おかしなおかね」に出店してきた

10月19日・20日にかけて新宿・歌舞伎町の王城ビルにて行われた、HYPE FREE WATERが主催する演劇型マーケット“おかしなおかね”に行ってきた。というか、出店で参加した。 Photo: daiki tateyama すげえ簡単に説明すると、入場料をオリジナル紙幣“ぺ〜ら”に換金し、ソレを使って遊ぶフリーマーケット的な感じだ。入場時にもらえる紙幣の量はランダムで、なおかつ大きいのとか小さいのとか箔押ししてあるゴージャスなやつとか色んな種類があるのだが、どれが低額でどれが高額かといった細かいルールは定められておらず、客や出店者はノリや相場に則ってぺ~らを使用することになる。ぺ〜らはあげても捨てても拾ってもいいし、破っても交換してもデコってもいい。価値は自分で決めていいのだ。 お金で遊ぶイヴェント Photo: daiki tateyama なるほどわからん、と唸る方も大勢あるだろうが、僕もさっぱり解らなかった。最初オファーが来たときも『何それ?』って感じだったし、ヴィデオ・ミーティングをやってもさっぱり解らなかった。当日やってみてようやく理解したのである。これは、まさに読んで字のごとく『お金で遊ぶ』イヴェントだったのだ。 初日から偽札やデコ札が横行してるわ、両替所もインチキしてるわ、お金を作るワークショップがプログラムに盛り込まれているわ、参加者たちはまるで食べ物で遊ぶ幼稚園児のように、ホビー感覚でお金を取り扱った。しかも、それでいて平和だった。監視システムもなければ、不正を取り締まるポリスもいないのに、全てがシッチャカメッチャカのままで不思議と調和していた。昔のギャグ漫画のような、ハードコア・ピースなカオスである。そのピースなカオスは、資本主義をおちょくる一種のパロディであると同時に、“お金ってなんだ?”という素朴かつ強烈な疑問をわれわれの目の前に突きつけた。 Photo: daiki tateyama それはまるで社会実験の被験者になったような気分で、たとえば来場者数が増える→ぺ~らの流通量が増える→レートが変わり、インフレが起きる。といった、言葉にしてしまえばごく当たり前に思える現象を、じっさいにリアルタイムで感じるというのは非常に得難い経験だった。街とは、そして経済とは生き物なのだ。たった二日間でこれだけのことが起きるのだから、もし一週間とか、一ヶ月とかやったら、社会経済学の論文のひとつやふたつはこしらえられるだろう。 けっこう気合い入ったアンチ・バビロン Photo: daiki tateyama ロケーションも抜群に面白いし、非日常的だ。歌舞伎町のど真ん中で異彩を放ちまくる王城ビルは、ひとことでいって“カッコいい廃墟”という感じなのだが、そんな場所に段ボールで出来た怪しげな店や出し物が乱立しているのだから、さながら学祭ノリの闇市といった風情だ。虚実皮膜、ウソと現実の境目にあるようなデタラメでいい加減なその世界観は、なんだかダウナーに居心地が良かった。端的にバビロンとは人間から素直さを奪うシステムであり、それはわれわれにあらゆることを諦めさせ、独立や自由、運命さえも投げ出させてしまうのだが、“おかしなおかね”はけっこう気合い入ったアンチ・バビロンだったと思う。 Photo: daiki tateyama 私事だが Photo: daiki tateyama で、僕は何をやったのかというと、紙芝居そしてテキスト・ジョッキーである。僕はペガサス団という紙芝居クルーを主宰しており、これは楽器隊の即興演奏とともにセ
踊ってばかりの国のワンマンライヴに行ってきた

踊ってばかりの国のワンマンライヴに行ってきた

7月17日に恵比寿LIQUIDROOMで行われた、踊ってばかりの国のワンマンライヴに行ってきた。彼らのライヴを観るのは3月にキネマ倶楽部にて行われた、んoonとのツーマン以来だが、踊ってばかりの国が東京で公演するのもそれ以来ということ。開演ギリギリに滑り込むと、もう会場は平日朝の小田急線ばりにパンッパンで、『これじゃもはや踊れねえじゃん。人気やば』とか思ったりした。 で、いきなり結論から申し述べるが、すげえ良いライヴだった。アンコール込み全21曲たっぷり二時間、彼らは存分に観客をトリップさせ、心の旅へと導いていた。 メンバー編成が現在のかたちとなった2018年以降の楽曲をメインに取り上げつつ、『!!!』のような初期の傑作や、野心的な新曲も織り交ぜたセットリストは充実の内容だった。にもかかわらず、“聴きたい曲全部やってくれた~!”という感想にはならない。『beautiful』とか『サリンジャー』とか『twilight』とか、個人的に聴きたかった曲はまだまだいくらでもあった。いかに彼らがエエ曲ばっかりのバンドなのか改めて思い知らされた次第である。 有機的なライヴ(何も言えねえ) 彼らのライヴはとても有機的だといつ観ても思う。 よく“ライヴは生き物だ”なんていったりするが、彼らのライヴほどそれをまざまざと感じさせる音楽体験は中々ない。展開されるグルーヴそれ自体が、息遣いや体温さえ感じるほどに、生命のタギリに満ちているのだ。グルーヴとは譜面化できないものだが、彼らほど譜面外にマジックがあるバンドは珍しいと思う。 たとえばJAMES BROWNのような、各パートがマシーナリーに連動する構造が生む物理学的なグルーヴと異なり、彼らが編み出すグルーヴはある種現象学的で、とらえどころがない。風に揺れる花とか、寄せては返す波のようだ。浮遊するメロディラインと輪郭のにじんだ演奏は、あらゆる境界線をぼやかしていく。一瞬と永遠、個と全、あらゆる色彩や感情がめちゃくちゃに溶け合い、声にならない叫びが込み上げてくる。サイケデリックとはひとことでいうなら“何も言えねえ”ってことだと思うが、愛に触れて崩落した瞬間や、美しいものに心を奪われた瞬間の、ただ何も言えずに立ち尽くすあの感覚を、踊ってばかりの国は全方位的に表現している。『moana』以降、彼らの表現はますます深化していると感じるが、マジで日本屈指のライヴバンドだと思う。彼らが音を鳴らした瞬間、本当に空気の色が変わるのだ。 Photo: Rintaro Ishige メンバーに対する個人的考察 この有機的なグルーヴは、彼らひとりひとりが楽器を通して人間性を伝えられるプレイヤーだからこそ生まれるのだろう。ここからはメンバーをひとりずつ、僕の視点から考察してみることにする。 坂本のドラムはシンプルにいってクソすばらしい。けして手数が多いタイプではないと思うが、きわめて高い技術力と絶妙なタイム感によって織り成されるプレイはひじょうに雄弁だ。 Photo: Rintaro Ishige フィルも多彩だし、シンバルレガートやゴーストノートに至るまで細やかな神経が行き届いていて、1秒たりともつまらなくない。『ひまわりの種』などの楽曲でも顕著だが、坂本の8ビートの幅は凄い。8.01ビートとでもいえばいいのか、しっかりとタメが効いていて、すごくレンジが広い。それでいて時折繰り出されるシンコペーションは自由かつ高度で、ここぞという場面で楽曲を際立たせている。 Photo: Rintaro Ishige そんな坂本と共にリズム・セク
御茶ノ水の富士見坂矢口にて“シロダーラ”を体験してきた

御茶ノ水の富士見坂矢口にて“シロダーラ”を体験してきた

去る7月5日、御茶ノ水にある美容院“富士見坂矢口”にてシロダーラなるものを体験してきた。 シロダーラとは、5000年の歴史を誇る古代インドの伝統医学・アーユルヴェーダの施術のひとつであり、額にある第六チャクラ(第三の目ともいう)に一定時間、人肌ぐらいの温度のオイルを垂らし続けるというものである。 『え、それだけ?』と思う人もあるだろうが、インドの叡智を見くびってはいけない。 このシロダーラは“脳のトリートメント”ともいわれていて、自律神経を整えてストレスを緩和させたり、血行を良くして頭痛や眼精疲労を改善したり、とにかく心身に好影響を与えるモノらしい。そしてややスピリチャルめいた話だが、直感/感覚/知恵を司る第六チャクラを開くことによって、直観力やインスピレーションを高めるともいわれているのだとか……。 Photo: Keisuke Tanigawa で、このたびこのシロダーラをなんと世界で初めて美容院で体験できるようにしたのが、ここ富士見坂矢口なのであーる。まぁ早い話が『マインドと一緒にヘアスタイルもキメちまえよ』っつーことなのであーーる。というワケでまんまとその魂胆に乗っかって、マインドとヘアスタイルをキメにやってきたのであーーーる。 頭蓋骨を整える さて、さっそく施術が始まるのかと思いきや、まずその前段階として、頭蓋骨の歪みを直すマッサージを受けた。 『え!? 頭蓋骨って歪むの!?』と思う人もあるだろうが、頭蓋骨というのはいくつもの骨が繋ぎ合わさってデキているのだそうで、これがうまく噛み合っていなかったりすると、さまざまな身体的不調が起こるのだという。 頭蓋骨の歪みを直すなんてちょっと痛いんじゃないのかね、とビクビクしていたのだが、いやはやこれが実に心地良い。その入力はきわめて緩やかで、まぁたとえて言うならやや真剣にタマ×ンを揉むぐらいの感じである(最低な例え)。なんでも頭蓋骨というのはそれほど強い力をかけなくても変化するのだそーだ。 Photo: Keisuke Tanigawa 時間にしてせいぜい十分程度だったと思うが、マッサージが終わると驚愕した。オノレの頭蓋骨が、手の指の関節ひとつぶんほど小さくなっているのである!! しかも心無しか、頭中にたまった“熱”が抜けて、顔面がナチュラルな弛緩状態になったような気もする……。 Photo: Keisuke Tanigawa 僕はめちゃくちゃプラシーバーで、思い込みやイメージが身体に多大な影響を与えるタイプゆえ、あくまで単なる個人的感想として読んでいただければと思うが、まぁ骨盤にせよ背骨にせよ、ズレた骨を定位に戻すことの効果は大きい。 意識はどんどん深層へ さて、マッサージのあとは、いよいよシロダーラの施術である。 奥の部屋に通されて椅子に寝かされると、その内装や雰囲気も相まって、気分はまるでSF映画のごときだ。胸を高鳴らせながら目をつむる僕の額に、タラーッと、ひとすじのオイルが流れてきた。一定の速度で垂らされるオイルは額のただ一点のみに集中するのではなく、微妙に右往左往する。 Photo: Keisuke Tanigawa そうして僕はほどなく半覚醒状態へ入った。このフィーリングをたとえるならば、さしずめ、“眠りに落ちる一歩手前”という感じだ。すべてを手放して眠ってしまうこともできるし、ただちに瞼を開けて起きることもできる。額に落ちるオイルの生暖かな感触も、毛足の長いブランケットの柔らかさも感じてはいるが、それと同時にすごくディープなところに意識が沈んでゆく。 そしてブレーカー
「YELLOWUHURU × the hatch "NAKED ORANGE”」に行ってきた

「YELLOWUHURU × the hatch "NAKED ORANGE”」に行ってきた

2024年6月28日、SHIBUYA CLUB QUATTROでおこなわれた『YELLOWUHURU × the hatch "NAKED ORANGE”』に行ってきた。精神世界ジャズと覚醒のファンクをつむぐ司祭的DJ・YELLOWUHURUと、混血のオルタナジャズ/ポストハードコアバンド・the hatchによる盟友同士のオールナイト・イヴェントである。 the hatchが主催するイヴェントに、これまで僕は結構な数を参加しており、ていうかフェアーに行きたいので正直に告白するが、まぁ普通に友達である。かなり身内だ。けども、そういうフィルターを取っ払って、すげえフラットな第三者視線でみても、彼らのイヴェントは総じて質が高いと思う。集客力より音楽的野心を判断基準にすえたラインナップは日本のオルタナ/アングラシーンの一角を的確にフォーカスしていると感じるし、商売っ気のない、てづくり感覚まごころ満載な運営姿勢は、学祭的なワクワクと誠実な緊張感を折衷しており、ムード/クオリティ双方においてかなり上質だ。 ちょうどよくて、親しみやすい Photo: Shiori Ikeno で、いきなり結論から入るが、今回のパーティーは社交場の属性が強かった。ひとりきりで頭の中を音楽でいっぱいにするようなストイシズムより、野外フェス的な弛緩と開放感がただよっていたように思う。というとなんだかディスのように聞こえるかもしれないが、これは断じてディスではない。単なる属性の話だ。属性というのは血液型や靴のサイズのようなものであって、それ自体に良いも悪いもない。パーティーはドープであればあるほど良いというのは、カレーは辛ければ辛いほどいいと言うようなものだ。  各種フードやちょっとしたフリーマーケット的な出店などもあり、テーブル席やシッティングスペースも設けられていた本イヴェントは、これまでのthe hatch絡みのパーティーと比べても、とりわけ“ちょうどいい”ものだったと感じる。今回のコンセプトは、かつて渋谷のContactが担っていたような「300~400人規模ぐらいの、DJもバンドも両方成立するパーティー」をやることだったらしいが、そのもくろみは結構成功していたと思う。ちょうどよくて、親しみやすい。 より無防備、よりパーソナルな Photo: Shiori Ikeno そして、そうしたパーティーのムードは、そのままthe hatchのバンドとしての現況にもリンクしていると思った。 ライヴを観たことがない人にわかりやすく説明すると、the hatchとはジャズポストハードコアエクスペリメンタルMPBラテンサイケデリックメタルオルタナティヴアフロコンテンポラリーダンスロックグループであり、多動的な曲展開とカオシックなアンサンブルが特徴的なのだが、冒頭にやった新曲はすげえ歌モノだった。初見でも歌詞がヒアリングできるぐらい、明確に歌が聴こえるものだった。KING KRULE的なメランコリーを滲ませた新曲は、なんちゅうかすげえ純ロックバンドって感じで、かなり意表を突かれた。さながら変化球主体のピッチャーが突然ストレートを投げたときのようなトマドイである。 僕は最前列で観ていたのだが、前列の、ヘッドバンギング&モッシュを待望するキッズたちも、おそらく一様にちょっと戸惑ったのではないだろうか。けれども、この変化は、セルアウトしたとか歩み寄ったとかそういうことではなくて、ノーガードになったということなのだと思う。より無防備に、よりパーソナルな表現に向かっている。野心の末にコンテンポ
FENDER「FIRST ANNIVERSARY SPECIAL NIGHT」に行ってきた

FENDER「FIRST ANNIVERSARY SPECIAL NIGHT」に行ってきた

東京・原宿にあるフェンダー初の旗艦店・FENDER FLAGSHIP TOKYOのオープン1周年のセレブレーションウィークに先駆けて行われた『FIRST ANNIVERSARY SPECIAL NIGHT』に行ってきた。 去年原宿を友達と歩いていた折、完成間近だったこの店を見かけて『ええ!? 原宿にフェンダー出来んの!? なんで!?』とかいって騒いだのがFENDER FLAGSHIP TOKYOに対する僕のファースト・インプレッションであり、それ以降もべつに訪れることもなく、いっつも『ふーーーん』ぐらいの感じで通り過ぎていたのだが、このたび初めて足を踏み入れたのだ。 画像提供:Fender Flagship Tokyo で、感想はというと、普通に面白い。楽器のみならず、フェンダーが手掛けたライフスタイル製品各種や、美味しいコーヒーやサンドイッチ等をラインナップしたカフェも展開されているので、“ギター? ギターってあれでしょ? フィリピンの首都だよね”というぐらいギターに興味のない人でも楽しめるだろう。人生で一度でも『ギターってかっけーな』と思ったことがある人ならば尚更だ。楽器屋というと機材が所狭しと張り巡らされたセセコマシイ印象があるが、FENDER FLAGSHIP TOKYOはまるで美術館の如しである。スペースをゆったりと取った空間は解放感に溢れていて、シンプルに場所として居心地が良い。 画像提供:Fender Flagship Tokyo フェンダー製楽器をあらゆる観点から堪能できる 地下一階から三階までを繋ぐ螺旋状の階段部には、フェンダー製のギターやベースを使用するミュージシャンたちの写真パネルが掲示されている。ジミ・ヘンドリックス、マディ・ウォーターズ、ジョン・フルシアンテ、田淵ひさ子、ボブ・ディラン、ビリー・アイリッシュなどなど、古今東西のスターがズラリと並んだそのさまは、ちょっとした写真展の如きである。昔の広告写真なんかもあるのだが、サーフィンしながらジャガー弾いてる男性がうつっていたりしてシンプルにどういう状況なんだよと思う。 画像提供:Fender Flagship Tokyo それから超レジェンドが使っていたギターも展示されている。リッチー・ブラックモアとかジェフ・ベックとかエリック・クラプトンのギターとかがあって“うおーすげー!”って興奮してたら“ウドー音楽事務所に寄贈”とか書いてあったりして、やっぱウドーはハンパねーとか思う。 画像提供:Fender Flagship Tokyo マスタービルダー(トップクラスの職人)が手がけたギター群が並ぶ三階フロアは、シンプルに壮観である。“目がよろこぶ”という表現があるが、マジで視神経と脳が繋がってる部分が喜んでいるのが解る。スーパーカーとかバスケットシューズなんかもそうだと思うが、機能美とキッズ・マインドが高いレヴェルで融合したデザインというのは、見ているだけで本当に心が躍る。 ほかにも地下フロアにカフェが併設されていたりして、とにかくじっくりゆっくり楽器と向き合えるような設えになっている。失礼な話、“原宿のフェンダーって経営大丈夫なのかしら?”とか思っていたのだが、これだけ配慮が行き届いていればそりゃあお客さんも来るワケだ。まぁそんな感じで、招待客がひしめき合う店内をウロチョロしていたらマーティ・フリードマンがいたのでかなりテンションがアガった。高校時代に朝青龍を見たときと同じぐらい嬉しかった。 ジミヘンのインプロを想起させるライヴペインティング んで、この日の特
ピンク・フロイドの『狂気』を爆音で聴きながらプラネタリウムを観た

ピンク・フロイドの『狂気』を爆音で聴きながらプラネタリウムを観た

有楽町のコニカミノルタプラネタリアTOKYO DOME1にて、「【爆音上映】ピンク・フロイド – The Dark Side Of The Moon」を鑑賞してきた。英国を代表するロック・バンドであるピンク・フロイドが1973年にリリースしたロック史に残る不朽の大名盤『狂気』を、プラネタリウムドームで映像とともに爆音上映するというイヴェントである。『狂気』リリース50周年を記念したプロジェクトの一環として、ピンク・フロイド側が新たに製作したオフィシャル作品であり、昨年日本で上映された際にはチケットが全日程即完売というたいへんな大盛況ぶりであったらしい。そのアンコール上映が本イヴェントである。 めちゃくちゃ期待していた ピンク・フロイドを爆音で聴きながらプラネタリウムを鑑賞する――いっけん珍奇なイヴェントに思えるかもしれないが、『狂気』とプラネタリウムにはじつは密接な関係がある『狂気』が初のお披露目をされたのもロンドンのプラネタリウム施設で、ドーム内には楽曲とともに星座や宇宙のヴィジュアルが映し出され、1973年当時たいへんな反響をよんだのだという。僕はこのイヴェントをひと月近く前から猛烈に楽しみにしていた。どれだけブッ飛ばしてくれるのだろう、ひょっとしたらブッ飛びすぎて気絶しちゃうんじゃないか、などと期待に胸を膨らませながら、その日を指折り数えて心待ちにしていたのだ。 画像提供:コニカミノルタプラネタリアTOKYO 楽しくて、面白いだけ(それが悪いわけもない) 会場にはリクライニング席と寝そべって見るクッション席があり、僕はリクライニング席でこれを鑑賞したのであるが、まぁひとことで言うと楽しかった。さらに言えば『楽しかった』以上のことはなかった。ただ楽しくて、面白いだけだった。無論、それが悪いといっているのではない。 ハッキリ言って、本イヴェントに『深み』とか『精神性』のようなものは一切ない。少なくとも僕には全く感じられなかった。『2001年宇宙の旅』(1968年作・監督スタンリー・キューブリック)におけるスターゲート・シークエンスのような抽象的かつ壮大な映像美や、もしくはピンク・フロイドの同名アルバムを映画化した『ザ・ウォール』(1982年作・監督アラン・パーカー)のような強烈なサイケデリック絵巻を期待していたのだが、プラネタリウムドームに映し出された映像はまったく、そういったものではなかった。宇宙飛行や曼荼羅めいた巨大なマシーン、幾何学模様、単細胞生物などなど、『サイケデリック初級編』とでもいうべき、サイケ・ムーヴィーによく登場する定番モチーフがいっさい何のヒネリもなく次々に登場する。 画像提供:コニカミノルタプラネタリアTOKYO 人間はずっと驚き続けることはできない 映像におけるサイケデリック表現というのは、常に進化/更新し続けられていて、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『レヴェナント: 蘇えりし者』や、テレンス・マリックの『ボヤージュ・オブ・タイム』、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『デューン砂の惑星』なんかが近年のマイルストーンだと思うのだが、本イヴェントにおける映像美はそれらの作品ほどハイファイでもオルタナティヴでもない(そもそも比較自体が間違っているのだが)。マーヴェルや『ワイルド・スピード』に見慣れてしまった目では、本イヴェントのコンピューター・グラフィックの質感は、むしろ懐かしさすら覚える。ド派手だし、テンションも高いし、それなりに興奮もするのだが、キューブリックやアラン・パーカーが試みたような前衛性/実験精神は全く見当
対話するエンターテイメント「ダイアログ・ウィズ・タイム」

対話するエンターテイメント「ダイアログ・ウィズ・タイム」

4月27日よりダイアログ・ダイバーシティミュージアム「対話の森」で開催されている『ダイアログ・ウィズ・タイム』に行ってきた。ドイツ発祥のソーシャル・エンターテイメントであり、純度100パーセントの暗闇の中で、視覚障害者にアテンドを受けつつ様々な感覚やコミュニケーションを楽しむ『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』、音を遮断するヘッドセットを装着し、聴覚障害者にアテンドを受けつつ音声を使わないコミュニケーションを楽しむ『ダイアログ・イン・サイレンス』に次ぐ第三弾が本展だ。 事前情報ナシ Photo: Keisuke Tanigawa   2019年に日本に本格上陸したものの、コロナ禍によってしばらく中断を余儀なくされ、このたびついに満を辞して再開されたダイアログ・ウィズ・タイムであるが、ホームページなどを見ても具体的なプログラム内容についてはほとんど明かされていない。 わかるのは “歳を重ねることを考え、生き方について対話する体験型エンターテイメント”“人生経験豊富な高齢者がアテンドする” という二点だけである。この御時世にこういった情報規制を敷く理由など『何も解らないまま体験した方がいいから』という以外にない。なので、公式の意図を最大限尊重すべく、本稿では具体的な詳述はせず、なんとなくの流れを伝えるに留めるが、これは決して手抜きではない。マジで手抜きではない。 ノらなきゃ面白くない   Photo: Keisuke Tanigawa   まずいきなり結論から述べるが、この展示はとことんノらないと面白くない。「恥ずかしい」とか「よくわからない」とかいわず、とにかく能動的にイヴェントの主旨にノっていかないと、ほとんど楽しめないだろう。全体的なテンションとしていちばん近いのは合唱コンクールだ。適当にやると面白くもなんともないが、積極的に取り組めば得るものがある。 で、手触りとして決して派手ではない。小・中学生が行う体験型授業の発展系のような感じだ。VR技術で高齢者の視点を体感するとか、最新の大脳生理学的な見地から老化にアプローチするとか、そういうハイテックでオルタナティヴなものは何もない。提案されるのは対話なのだ。本展はあらゆるベクトルから、鑑賞者に対話のきっかけを持ちかける。 対話を促すアトラクション   Photo: Keisuke Tanigawaダイアログ・ウィズ・タイム   女性の老化過程をエミュレートしたモーフィング映像を観たり、『あなたは過去に戻りたいと思いますか?』とか『何歳に見られたいですか?』とか書かれたパネルのまえで自問自答したり、重りや特殊なメガネ等を装着して高齢者の世界を疑似体験したり、マンボ踊ったり、ロールプレイしたり、ディスカッションしたりもするんだけど、これらはすべて鑑賞者に対話を促すアトラクションである。過去の記憶や身体感覚と向き合うことで感情を刺激し、思考を生む。そしてさらに、言語化というプロセスを経ることによって、鑑賞者は『じぶんでも知らなかった自分』を発見することになるのだ。よくあるだろう、友だちとちょっと深い話をしていたときに、自分の見解を述べたら『え、俺こんなこと考えてるんだ』って我が事ながら驚いてしまうようなことが。そういう瞬間をつかむきっかけが、本展にはたくさん散りばめられている。けれど前述した通り、とことんノッて、能動的に、積極的に参加しないと、この効果は得にくいだろう。考えて、それをしっかり言葉にしなければ。本展のテーマはあくまで『コミュニケーション』なのである。 (それにしてもプログラム内にダ
東京レインボープライド2024は、「かなりLOVEだった」

東京レインボープライド2024は、「かなりLOVEだった」

テキスト:山塚リキマル LGBTQ+当事者とその支援者・アライ(ally=仲間や同盟を語源とするLGBTQ+当事者の支援者)と共に「生と性の多様性」を祝福するイベント「東京レインボープライド2024」に行ってきた。今年プライドパレードが30周年を迎えたという本イべントであるが、今回僕は初めて訪れた。で、どうだったかっていうとヤバかった。単純に人の数がヤバい。マジで超盛況だった。 僕が会場に着いたのは12時過ぎだったが、新型iPhoneの発売日とジャスティン・ビーバーのコンサートが重なってもこうはならないだろうという、圧倒的な人波であった。人人人、見渡す限り人だらけ。人口密度具合を例えて言うと、「ギリ吊革が全部埋まらないぐらいに混んでる電車」って感じで、マジで超盛り上がってた。 Photo: Kisa Toyoshima4月20日の会場 マジで人の数がヤバかった 聞くところによるとこの東京レインボープライド、去年はなんと2日間で約24万人を動員したというから驚きだ。しかも動員数は近年だんだん伸びてきていて、今年は残念なことに初日の4月19日が強風で中止になり20、21日の2日間日程での開催となったものの、それでも公式発表によればトータルで述べ27万人を動員したという。出店や企業・団体による出展ブースもいろいろ出ていて、フォトスポットありキッズスペースあり特設ラジオブースありで、もう規模感とか風格で言えば完全に夏の大型フェスの域に達してた。喫煙所が終日爆混みだったし。 画像提供:東京レインボープライド2024 会場を満たすLOVE で、僕がいいな~と思ったのは会場を満たすムードである。誤解を恐れず忖度(そんたく)抜きで正直に述べると、かなりLOVEだった。愛の波動をツヨク感じた。おそらくパートナーと来たのであろうカップルたちが、手をつないだり膝を貸したりして仲むつまじそうにしてる光景が至るところに遍在していたのだが、なんつーか胸が、ほわ。ってなった。空気の色がうっすらとピンク色してる感じというか。 あとみんな、「ほっとしてる」って感じがした。これは良いパーティーに共通する空気感なんだが、ドキドキもワクワクもしてるけど、でも同時に安心してる。っていうヴァイヴスがビンビンにみなぎってたのだ。インクルーシブなセーフスペースであろうとする意志が、会場の隅々に行き渡ってないとこうはならないハズだ。 さてそんな感じであちこちフラフラしまくったのち、14時からプライドステージへ赴いてそこから終演まで一通り観た。 画像提供:東京レインボープライド2024AISHO NAKAJIMA グッドヴァイヴスなステージ まず各国駐日大使館によるスピーチがあり(ベルギー大使のスピーチがすごく良かった)、それからトップバッターのYYが登場した。ビートメイカーと箏(そう)奏者のユニットで、オリエンタル感あるメロの四つ打ちで、要するにYMOが発明しゲーム音楽が確立し、ボカロがカジュアル化したダンスミュージックだ。 画像提供:東京レインボープライド2024YYの明日佳 画像提供:東京レインボープライド2024YYビートメーカーの WOCASI 日本舞踊とインラインスケートを折衷したダンサーのパフォーマンスなんかは、まさしくクールジャパンという感じだった。「ブレードランナー」的というかね。この日観たステージパフォーマンスはほとんど総てダンスの要素が入っていた(普通に歌い演奏するだけのバンドとかは一組も出てなかった)のも興味深いところだと思う。 画像提供:東京レインボ
パンクスは君に語りかける――映画『i ai(アイアイ)』を観て

パンクスは君に語りかける――映画『i ai(アイアイ)』を観て

いま、もっとも勢いのあるロック・バンドのひとつであるGEZANのフロントマン、マヒトゥ・ザ・ピーポーが監督・脚本・音楽をつとめた初の映画『i ai(アイアイ)』を観てきた。現代の音楽シーンにおいてGEZANが異様な存在であるように、本作もまた、現代の劇映画シーンにおいて異様なものだった。 単調な日々を送る平凡な青年が、破天荒なバンドマンとの出会いをきっかけに、バンドを組み、人生の輝きを獲得していく。というあらすじだけ書いてしまえば、何やらさわやかでステキでいい感じの青春映画に思えるが、本作はさわやかでもステキでもいい感じでもない。本作はあまりにも切実だし、無責任に甘い夢や明るい未来をみせたりはしない。ただ、はじまり続ける“いま”を力強く描き出す。 画像提供:アニモプロデュース(左)マヒトゥ・ザ・ピーポー 日本の未来はウォウウォウウォウウォウなどとほたえ騒いでいた世紀末を過ぎ、「ひょっとしたら俺たちに明るい未来なんかないんじゃね?」と若者たちが気づき始めた2000年代初頭に制作された『EUREKA(’00)』や『LOVE/JUICE(’01)』、『リリイ・シュシュのすべて(’01)』、『青い春(’02)』、『Laundry(’02)』などの、青春期の傷や痛み、喪失や無力感をまなざしたオルタナティヴな映画群と本作は、共通する手ざわりをもっている。それはありきたりな表現でいうなら“ヒリヒリする”という感覚だ。 ポップであることを拒絶する、状況主義的アプローチ これはパンクスが作った映画だな、と思った。技術的に稚拙であるとか、反体制的だとか、そういう意味ではない。状況主義的なのだ。スペクタクルに中指を突き立て、強烈なアジテートをくりかえす。 どこまで意識的にやっているか解らないが、本作はポップであることを拒絶していると思う。本作ではさまざまな事件が起こるが、その根拠はほとんど提示されない。映画におけるポップとは「なぜこうなったか」「なぜそうしたか」という説明責任を十全に果たし、観客の好奇を刺激しながら理解と納得を得ることだと思うが、『i ai』にそういったそぶりは見られない。本作の抽象的な演出やバランスを欠いた構成、生々しすぎる録音は、安易な共感や理解をこばむ。 画像提供:アニモプロデュース 森山未來演ずる破天荒なバンドマンの“ヒー兄”はまさしくその権化のような存在で、猛スピードで意味や理由をひたすらぶっちぎり続ける。意味や理由をぶっちぎる、というのはロックンロールの基本原理だ。つまりは「I Can't Get No Satisfaction 」であり「I Can't Explain」である。 画像提供:アニモプロデュース   画像提供:アニモプロデュース ただ、説明的ではないけれども、情報量はすさまじい。宮沢賢治めいた汎神論的世界観が見え隠れする、マヒト独特のアフォリズムに満ちた脚本はパンチラインの宝庫で、とにかく言いたいことを言い続けている。モブ表現やゴーストノート的な装飾、ハンドルの“あそび”の部分を排し、たえず何かをまっすぐに突きつける。その剥き出しのことばの強さは、人物像の書き分けやシーンの整合性にすら侵食しており、邦画の現代劇としてはっきりと異様だ。本作にマヒトが出演していないのは至極当然だと思った。なぜなら本作の登場人物は、すべてマヒトゥ・ザ・ピーポーの依代だからだ。 白昼夢的な映像美 ドント・シンク・フィールな作劇に寄り添う映像は、みごとに場の“空気”をとらえている。撮影を手がけたのは写真家の佐内正史だが、的確なロケハンも
意識や身体がリフレッシュされる感覚

意識や身体がリフレッシュされる感覚

2月9日より西麻布台にオープンしている体感型美術館「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボボーダレス」に行ってきた。僕ごときが説明するまでもないと思うが、チームラボとはプログラマーやエンジニア、数学者や建築家や編集者など様々な分野のスペシャリストを擁するデジタル・コンテンツの制作クルーである。 アプリ開発やインフラ構築など多岐にわたる事業を展開しているが、その中でもいちばん有名なのがプロジェクションマッピングを多用したデジタル・アートだ。まぁここまで知ったような口ぶりで書いたが、僕はチームラボの作品をこれまで体感したことはなかった。「マジいいよ」という評判はかねてから耳にしていたし、ティザー映像を観て“何コレすっげー!”とか思ったりもしていたが、ずっと足を踏み入れる機会を持たぬまま、今日こんにちまで生きてきたのである。 Photo: Kisa Toyoshima 五感を駆使している感覚 んで、実際に体験してみてどうだったかというと、面白かった。とにかくスケールがやばいし、幻想的なビジュアルにも静謐な興奮を感じたが、 なにより、頭や身体がリフレッシュされるような感覚をおぼえた。コレには少々驚いた。 無数のセンサーやプロジェクターがリアルタイムでコンピュータ駆動される超サイバー空間であるからして、ものすごおおおおおおくSFな世界観を想像していたのだが、じっさいの手触りはむしろ、オーガニックなものだった。 山の奥深くに入ったときのような、五感を駆使している感覚があった。 Photo: Kisa Toyoshima たんに見て触れるだけでなく、フロア毎のコンセプトに沿って調香師が作ったアロマの香りが漂っているわ、幻想的な音楽が薄いヴェールのようにたちこめているわ、供されるドリンクにも仕掛けが施されているわで、もう空間そのものがこちらの五感にたえずアクセスしてくる。 Photo: Kisa Toyoshima 美術館特有のしかめつらしい緊張感はここにはなく、自然の中にいるときと同種の開放感がある。そして壮大でイマジネイティヴな光の交錯は、たんに一方通行的に提示されるのでなく、全方位的に相互作用しながら変化している。 Photo: Kisa Toyoshima 触れたり歩いたり立ち止まったりすると、こちらの動きに合わせて壁や床にエフェクトが現れるし、各フロアも単独で成立しているのでなく、あらゆるエフェクトが行き来しているのだ。つまりはボーダレス、境目というものがないからして常に影響しあっており、おなじ瞬間は二度とない。これは、わたしたちが生きる現実世界のトレスでもある。 Photo: Kisa Toyoshima 積極的に、そして能動的に 万物は影響し合いながら存在している。バタフライ効果、あるいは“風が吹けば桶屋が儲かる”というように、わたしたちの振る舞いはたとえそれがどれほど微弱な動作であっても、確実に世界に影響を与える。だが、普段の暮らしにおいて、それを肌で実感するのはむずかしい。 『自分がただここにいるだけで、なにかしらに影響を与える』『いまこの瞬間は二度とない』という事実を、わたしたちはすぐに忘れてしまう。だが、そのフィードバックをめちゃくちゃファンタジックにブーストしたこの美術館は、そうした事実をまざまざと体感させてくれる。 「わたし」と「世界」の関係性を自覚させてくれる。その結果、鑑賞者はとても積極的になり、能動的にふるまう。 Photo: Kisa Toyoshima 僕も初めこそおっかなびっくり壁
人間が生きていくには祭りが必要だ、「Road Trip To 全感覚祭」

人間が生きていくには祭りが必要だ、「Road Trip To 全感覚祭」

今、日本でもっとも勢いのあるロックバンドの一つ、GEZANおよび、彼らが主宰するレーベルの十三月が企画する野外フェス「Road Trip To 全感覚祭」に行ってきた。2014年から行われてきたこのフェスは文字通り、数々の伝説を作り上げてきたことでも知られている。 その中でも2019年、台風19号の影響によってあえなく中止という憂き目に遭いながら、渋谷のライヴハウスを会場にサーキットイベントとして急遽開催された「SHIBUYA全感覚祭 Human Rebelion」は、本邦の音楽史における革命的出来事として、多くの人々の記憶に刻み込まれたことだろう。 Photo:水谷太郎「Road Trip To 全感覚祭」会場の様子 その伝説の夜から、コロナ禍を経て、実に4年ぶりとなった本イベントは、なんと開催10日前に公式アナウンスされるという、まぁ言葉を選ばなければ『いかれてる』ものであり、本当に実現するのか?と思っていたのだが、実現した。それも大成功といってやぶさかではないほどに。無理が通れば道理が引っ込むというが、これほどこの言葉を体現しているバンドを、僕はGEZAN以外に知らない。狂気じみたパッションとすさまじい行動力によって、すべてを「持ってゆく」チカラだ。 Photo:水谷太郎「Road Trip To 全感覚祭」会場の様子 これぞパンクだとかDIYだとかインディペンデントだとか言えば解りやすいだろうが、それは解りやすいが故に、目が粗く雑だ。全感覚祭は、そうした言葉では拾い切れない混沌と不条理、爆笑と慟哭、死の匂いと生の爆発、頭蓋骨まで熱くなるようなギリギリの感情の猛りに満ちあふれている。すなわち祭りだ。人間が生きるためには祭りが必要なのだ。 Photo:水谷太郎 『Just Do It , Now’s The Time』。どれだけ無茶で無謀でも、彼らは今、何がなんでもこの祭りを遂行したかったのだろう。生きるために、生かし続けるために、そして心から信じるもののために。「でも、やるんだよ!」という、祈りにも似た決意が渦巻いていたあの夜のなかで、僕が見たものについて、忖度なしに述べていこうと思う。 ウケるぐらいの寒さ、やばいぐらいの熱気 2023年11月18日、舞台は川崎「ちどり公園」。工場地帯のド真ん中にある臨海公園で、近年はレイヴなども開催されているスポットだ。「やばいぐらい寒い」と事前に伝え聞いていたのでガチガチに着込んでいったのだが、ウケるぐらい寒かった。 Photo:水谷太郎 冷たい海風が吹きすさぶ広大な会場には、トラッククレーンを用いて作られた全感覚ステージ、小箱のライヴハウスのようなセミファイナルジャンキーステージ、テント前に組まれたかちこみステージ、色とりどりの電飾で彩られた祭壇が設置されたSPACE SHIPがあり、それぞれの場所で、絶えることなく異様な熱演が繰り広げられていた。 Photo:水谷太郎切腹ピストルズ ジャズもヒップホップもハードコアもテクノもサイケデリックも、あらゆるジャンルが輪郭をはみ出しながら同居するカオスな無国籍感と、たくましい生命力がみなぎりまくるその様は、ごつごつした剥き身の自由を感じさせる。 本来、100人キャパのライヴハウスでしか体感し得ないはずの、たぎる血の気と汗の匂い、身の危険を感じる緊張感、脳天が爆裂するような衝動がそこかしこに横溢していて、野外フェスとしてシンプルに異常だ。この異常を僕は頼もしく感じた。「全感覚祭って、こういうイヴェントだったよな」と、アタマではなく、肌で思
あまりに面白すぎる、文化系の楽園「TOKYO ART BOOK FAIR」

あまりに面白すぎる、文化系の楽園「TOKYO ART BOOK FAIR」

「東京都現代美術館」にて毎年行われている、アートブックの祭典「TOKYO ART BOOK FAIR 2023」に行ってきた。今年は11月23〜11月26日(日)の4日間にわたって開催されているのだが、その初日に足を運んだ。 Photo:Runa Akahoshi 津々浦々、世界各国から集結した約300組もの出版社やギャラリー、ショップやアーティストが出展し、さらにはゲストを招いてのトークショーや子ども向けのワークショップ、サイン会やライヴパフォーマンスも行われるという、なんかもう文化系の楽園みたいな催しなのだが、いやもう超ヤバかったっスねー。 人が。 超ヤバかった客入り 僕が訪れたのは16時ごろだったのだけれども、現代美術館の前には『新型iPhoneの発売日ですかな?』と思うぐらいの長蛇の列ができており、会場内に入るとかなり盛り上がってるパーティー並みの人。とにかく来場客でゴッタ返しまくり。 Photo:Runa Akahoshi会場の様子 しかも、なんかオシャレでシュッとしてる人ばっかりなんで、寝癖丸出しでひときわ見すぼらしい格好をした僕は肩を縮こまらせ、なるべく迷惑にならぬように息を潜めて回遊していたワケなんだけど、いやあ、それにしても面白かったー。面白すぎ。「こんだけ面白くて見応えあるんだから、そりゃあ人も集まるわな」っていう、マジで超志の高いイベントだった。 Photo:Runa Akahoshi 実は僕は今回が初めてではなく、去年、友人の出店ブースを間借りして自著のサイン会をやったので(3人しかサインしてない上に、そのうちの2人は僕から「よかったらサインとか要りませんか?」とありがた迷惑な営業をかけた格好なので、サイン会と呼ぶのもおこがましいのだが)、この盛り上がりっぷりは知らなくもないのだけれど、去年より人が多かったんじゃないだろか。 出店ブースの豊かすぎるバラエティー まず地下2階と1階に分けられた出店ブースだが、もうこれだけで既に来る価値がある。「アートブック」と銘打たれてはいるけれども、実際に扱われる品目たるや大変バラエティー豊かで、画集、写真集、ZINE、漫画、絵本、ポスター、Tシャツ、トレーナー、キャップ、ポーチ、トート、ステッカー、ポストカード、カセットテープ、フィギュアなど多岐にわたる。しかも、そのどれもこれもがハイクオリティーでハイセンス。 Photo:Runa Akahoshi 古着屋のカウンターに手慰みに並べられるような雑貨類のレヴェルではなく、確かな審美眼と高い文化水準と熱量に裏打ちされた「グッド・シングス」ばかりなのだ。眺めているだけで、脳と視神経をつないでいる部分が喜んでいるのが解る。そしてその喜びは、ダイレクトな知的興奮をもたらす。 根底に息づくリベラルさ 僕はスッカリ興奮しまくりながら、「うわおー! なんだこのチープでケバくて異様にサイケデリックな漫画! 超かっけー! この超巨体の女性のヌードしか載ってない写真集もクソやっベー! なんだこれ、ハングルのタイポグラフィ!? 初めて見た! うわおー! 全部うわおー!」などと騒ぎ、混雑するブースを次々に見て回った。 Photo:Runa Akahoshi Photo:Runa Akahoshi 本当にいろいろなものがあるが、その振れ幅はとても大きい。 気候変動や貧困、ジェンダーについて取り組んだZINEも、ハリウッドスターの卒アル写真に「ACID喰ったらGODに会える」という文言を書き添えたステッカーもある。 だが、その根底にはすべて、